「英彦山から紐解く鷹神話」


               下書き偏

 始めに。
 日田の湖水伝承(日と鷹の神話)を調べていたら、鷹伝承そして英彦山へとつながって行く。そこで藤原恒雄伝承を知り、その恒雄が日田の人物で檀君神話、英彦山神という想像も出来ない世界が待ち受けていた。
 どうして英彦山神を豊前と筑豊の人々は恒雄という人物を奉ってきたのだろう。日田には大きな権力基盤はないかもしれない。私はこれまで、3世紀の邪馬台国時代と「筑紫の君・磐井」ばかり追い続けていた(私は日田は第2期邪馬台国の女王の宗女(卑弥呼の後継者)でる台与(久津媛)の都と思う。初期邪馬台国(夏羽伝承)は筑豊?)。
 恒雄伝承を調べながら行き着いたのは、この恒雄の檀君神話こそが、3世紀〜6世紀までの九州の謎を解く秘密であった事に気づきこの文章にしたのです。
 英彦山は、比較的新しい歴史だと言われるが、縄文遺跡もあり、本当は相当古い歴史が実在しているのに、消し去られているとしか思えない。英彦山の高住神社(恒雄を祭神)の宮司も、ある時期を境に歴史が消えてしまい何も残っていないという話を私は聞いている。『日本書紀』の応神記にも英彦山で輝く水晶の記述もある。
 日田には、古代卑弥呼の時代から磐井までの時代の新羅から舞い降りた奥津城(聖地)であった。それが会所山と竜体山という風水であった。

「英彦山と檀君神話の謎」

 今は「英彦山」であるが、日子山→彦山→英彦山へと表記が変わっている。英彦山は北岳・中岳・南岳(主峰:標高1200メートル)の3峰からなり、日本百景・日本二百名山の一つ。また、弥彦山(新潟県)・雪彦山(兵庫県)とともに日本三彦山に数えられる。
 英彦山、中央の中岳の山頂から山腹にかけて上津宮・中津宮・下津宮があり、その下に奉幣殿がある。また英彦山全域に摂末社が点在する。また大分県日田市との境にある釈迦岳(1,231m)に次いで2番目に標高が高い。山域は福岡県と大分県の県境未確定地域となっている。
 『鎮西彦山縁起』によると、継体天皇二十五年(531)に北魏の渡来僧・ぜんしよう善正が始めて英彦山に入ったという。岩屋に籠もって修行中に、猟師藤原恒雄と出会う。恒雄は善正の弟子となり忍辱(檀君神話にはヨモギとニンニクの話が登場する)と改名し、ついには山頂に阿弥陀、釈迦、観音の本地仏を見る。つまり、英彦山の開祖は善正、第二世が忍辱とされている。当時、北魏は仏教のほか、道教が隆盛しており、日本海ルートを通じて北九州でもそれらが新しい思想潮流として受容されていたことは間違いない。(ただし『彦山流記』(彦山の最古記録書・鎌倉)には善正は全く登場しなく「藤原恒雄云々」と書かれている。
 また、恒雄の名も朝鮮の檀君神話の桓雄に由来するのではないかという指摘もある。※中野幡能氏は『英彦山と九州の修験道』で桓雄は人間界を救うために太伯山に降臨した神人で、檀君は桓雄と熊の間に生まれた朝鮮民族の始祖とされる。中野氏は、桓雄という民族の救済心としての古俗の名残が藤原恒雄であると見る
 
 檀君神話とは、13世紀末に書かれた『三国遺事』に初めて登場する、伝説上の古朝鮮の王である。『三国遺事』は、高僧一然によって書かれた文献で、朝鮮半島では、『三国史記』(1145)に次ぐ古い文献である。天神、桓因の子、桓雄と熊との間に生まれたと伝えられ『三国遺事』の原注によると、檀君とは「檀国の君主」の意味であって個人名ではなく、個人名は王倹(おうけん・ワングム)という。
 桓因の庶子である桓雄は、下界に興味を持ったので、桓因は桓雄に下界を治めるよう命じ、桓雄は太伯山(三國遺事の注釈では妙香山のことであると明記されているが、白頭山とする説も散見される)の神檀樹に部下3,000人と共に天下って「神市」という国を築いた。桓雄はある熊の願いをかなえて女にし、この熊女(ゆうじょ、ウンニョ)との間に子をもうけた。これが檀君王倹(檀君)であり、朝鮮最初の国家である檀君朝鮮を築いた人物であるとされる。
 
彦山の神、日田の藤原恒雄(別名:藤山恒雄)の謎」
 
 藤原恒雄は、伝説上の人物とされ、日田市史などの公共的な文献にはいっさい登場しない伝説上の人物である。しかし、日田史参考資料十五巻「英彦山高住神社」資料にはこの藤原恒雄伝承が濃厚に記述されている。別名として藤山恒雄と書かれている場合もある。この資料は大宰管内志中巻、善鳴録、豊西記古後本、日田郡史、豊西説話巻三、豊後国志、から抜粋されたものだ。
 英彦山の高住神社の由来は、高住社伝によると御祭神は豊前豊後の国の守り神として、もと鷹巣山に祀られ、人々の病苦を救い、農業や牛馬・家内安全の神として古くから崇められ、社殿は遠く継体天皇の御代(約1500年前)藤原恒雄によって創建されたと伝えられている。また農作と深く関わる信仰から、農耕牛馬の守り神として牛馬安全の信仰がうまれ、その信仰は“豊前坊さま”として豊前豊後はもとより筑前・筑後へも伝わり、信仰の名残が小社や石碑として各地に点在している。
 藤原恒雄の伝承の物語を紹介する。彦山の開祖は、中国の魏国の人善正法師である。普泰の年に大宰府に来て仏法をひろめようとしたが果たさず、光が日子山にさすのを見て、山中の石窟にこもり、時期が来るのを待った。531年のことである(磐井の乱527年)。
 このころ、豊後国日田郡に藤原恒雄という者がいて、弓射がうまくよく猟をしていた。獣を追って山に入ったときに、岩窟に座している善正を見て不思議に思い、何でそういうことをしているのかと聞くが言葉が通じない。善正も恒雄に殺生の罪を話すが通じないので、恒雄は猟を続けていた。
 そのうち恒雄は善正の姿を見ているうちに信心の気持ちが起こったのか、善正の窟のそばにカヤぶきの小屋を作って住むようになった。それ以後、二人は親しくなり言葉も少しは通ずるようになった。宣化天皇の三年のある日、恒雄は猟に出て一匹の白シカを見つけ、それが瑞獣であることを知らずに弓で射た。シカはその場に倒れたが、そのときどこからか三羽の鷹が飛来し、一羽がくちばしで矢をくわえて引き抜き、一羽が羽をひろげて傷口をなでて血をぬぐい、残りの一羽はヒノキの葉を水にひたしてシカにふくませた。すると、シカは生き返りたちまちに姿を消してしまった。
 恒雄はそれを見て、神の仕業とさとり、大いに恥じいって、弓矢を捨て、家財をなげうって祠を建て、善正が抱いて来た異国の神像(仏様=我が国ではまだ仏陀を知らない。)を安置して祀り霊山と名づけた。みずからは善正の弟子となり忍辱と名のり、修行にはげんだ。これが我が国における僧の始めである。恒雄は更に、シカやタカは仏の本体ではないから、ぜひ仏様に会いたいと祈ると、北岳に現身(法体)を現して「我はもと阿弥陀如来であり、神となって現れた」といい、南岳には俗形で釈迦如来、中岳には女容で観世音菩薩があらわれた。それゆえ三岳の山頂に神祠を建てて祀り、繰返し祭りをおこなったので、神々の霊応ますます顕著であった。

 造領記には、藤原恒雄の事を記述している内容が、驚きである。「橘豊日天皇(用明天皇・587年)の二年に天皇不豫群(病気)になり、内裏(天皇が住む)に入ったのが豊国法師こと藤原恒雄と記述し蘇我馬子が賛成して呼んだもの」と言われている。
 しかし、この事で、物部守屋が反対し、相戦し騒がしくなり、彦山に帰り霊山時に寂しく後の人になり、恒雄が家は藤山にありしと伝えている。
 豊国法師の彼らの正体は謎に包まれているが、それより百年ほど前に雄略天皇が御不慮であったさいに宮中に召された「豊国奇巫」の後身ではないかと推測されている。豊国奇巫といえば、明らかに朝鮮半島系のシャーマンであり、その後身である豊国法師も、おそらくシャーマニズム的な奉仕だったのだろうと中沢 新一(日本の宗教人類学者)氏は述べる。豊国法師には験力があったのだ。
 中沢氏は、柳田國男氏(日本の民俗学者)の巫女研究の跡をたどりながら、「修験道の原初をあきらかにしていくためには、どうしても東九州から朝鮮半島の南部までをひとつに包み込んだ大きな圏域のことを考えにいれなければならないという認識に、たどり着くことになる」と述べる。

 このような発生をした修験道の開祖は、七世紀から八世紀にかけて活躍した役小角(えんのおずの)であるとされている。一般には「役行者(えんのぎょうじゃ)」と呼ばれる彼は不思議な霊力を持っていたようで、山中にあって鬼神を自由自在に使役していたとか、超能力で空中を飛行したといった類の伝説が多く残っている。彼の正体は山岳修行者であることは明らかで、吉野の金峰山(きんぶせん)や大峰山(おおみねさん)やその他の山々を開いた。だが、土着の山岳修行者との間に軋轢が生じ、彼らによって伊豆の大島に流刑されたのである。

 余談になるが、日田の大蔵氏も彦山に7年滞在し、戸山に出てきた。紀伊から来たといわれる諸説もあるが、宇佐から来たというのが大方の説だ。しかし国語辞書で「鬼」を調べると、日本には京都八瀬と日田に鬼の家系が残ると書いている。詳細は書かないが、秦氏(豊前地方)との関連も予想される。そして中国の『隋書』(656年) には、この秦王国や阿蘇、邪馬台国の記述もみられ「秦王国は筑紫の東に秦王国あり、また10余国へて海岸に達する」という。10余国へて海岸に達する秦王国の都は少なくとも海岸でなく、飯塚か日田もその範囲にあてはまるのではないか。
 
「鷹伝承と天照大神の皇子を祭神する英彦山と香春岳の秘密」

 豊西記、豊後国志、矢野家伝(日田の矢野家に伝わる文書で、湖水伝承、大山、前津江などの記述がある。この文書には、安土桃山時代からの記録や太閤地検の内容は県下唯一であり、また、絵図には月隈山の天守閣が画かれ一家の伝承に過ぎないがもっと重要視されるべきである)には、日田が湖であり、西から飛んできた鷹が湖(日田盆地)を決壊させ日隈や月隈や星隈が現れたという伝承である。『豊後国誌』には、日田は日鷹と呼ばれ鷹が日田を創世してその鷹が次に鷹羽郡(田川)に飛び去って行ったという記述が残される。
 田川と言えば、古代史的に代表されるるのが、香春岳で新羅の神が舞い降りたという伝承が残る地域であり、早く言えば秦氏そのものにつながる。ただ、秦氏との年代との誤差はあるが、現人神神社(香春岳近く)には、都怒我阿羅斯等という新羅(伽耶)の神が舞い降りた伝承が残り、また鏡山にも濃厚な仲哀天皇や神功皇后も残る。香春岳からは銅・鉄・金が採れる重要性がある。ちなみに奈良の大仏もこの香春の銅が使われている。
 また香春神社の祭神は 辛国息長大姫大目命、忍骨命、豊比売命であり、英彦山神社の祭神も香春と同じ「正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命=忍骨命」である。これは私見であるが、天照大神の子ども「忍骨命」であるから日子=太陽神の子どもではないかと想像する。余談だが2代天皇から9代まで別名で「日子」の名が付くのも関連があると思われる。
 また大和岩雄氏は英彦山神と香春神と恒雄の共通性を紐解く。以下参照。
 「この伝承の根は、朝鮮の始祖降臨の檀君神話にある。朝鮮の始祖降臨神話の主人公が、彦山伝承では語られていたが (但し、「藤原恒雄」と日本人化してはいたが)、それが、記・紀神話の主人公に変えられて、天忍穂耳命(天照大神の子ども=あめのおしほみみ)となり、香春神社の祭神の忍骨命となったのである」という大胆な仮説を著書で書き示している。 (※大和岩雄氏は鷹=秦氏=鍛冶=農耕=都怒我阿羅斯等という考え方)

英彦山は筑紫の日向(ひこ)で天の香具山
 『記紀』神話に登場する天照大神・素戔嗚尊・月読尊が生まれた「筑紫の日向」という地名であるが、一般的には宮崎の日向(ひゅうが)と言われるが、私はそう思わない。少なくとも、日向(ひゅうが)は景行天皇が九州を回るときに、ここは日がよくあたるから日向と名付けようと言っている。
 であるなら、それ以前に筑紫に日向(ひむか・ひなた・ひこ)が存在しているのであって、少なくともこの日向は北部九州が妥当だと私は思う。豊前風土記にも豊前風土記にいわく 京處郡(京都郡) いにしえ 天孫(あめみま)ここより發(発つ)ちて、日向の舊(旧)都に天降りましき。けだし、天照大神の神京(帰る)なり。云々と記述される。
 特に、朝鮮半島では、高い山から下流域に広がる軍事的な戦術があり、九州に入り、英彦山に先に入って来た可能性も十分ある。また『彦山伝承』にも徐福が筑紫から彦山にやって来て、不老不死の薬(千年杉・檜?)を隠したという記述も書かれている。
 本来の話に戻そう。
辛国息長大姫大目神社と忍骨神社に正一位の神階が与えられたのは、承和10年(843年)のことだったが、これは奈良の大神神社(859年)、石上神宮(868年)、大和神社(897年)が正一位になった年よりはるかに早く、この「香春」という重大な意味が見えてくる。
 神社伝承で豊前の一の宮は宇佐でなく香春という記述も残るくらいである。『記紀』神話には天の香具山という山が登場するのだが、神話では、銅や鉄が採れるとあるのに奈良の香具山からは何も存在しない。そこで本当の香具山は香春岳という説も根強く、筑豊では今、この伝承を重要視して公的団体(財団・西日本新聞など)市町村単位で多くの講演会活動を行っている。
 面白い内容がある。『日本書紀』では八咫の鏡を造るときに天の香具山の銅を取りてとあるが『古事記』では、天の香具山の真金(鉄)を取りて八咫の鏡を造ったと記述していいる。そこで江戸時代の国学者、飯田武郷と平田篤胤は八咫の鏡は「鉄鏡」だと江戸時代に仮説している。日田出土「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」とも関連していると私見では思う。
 筑豊の神社を回っていると、饒速日命や豊姫や宗像三神や素戔嗚尊の神社が多く、神社も南向きが多いのに気づく(北を向いて拝む)ように、新羅との関連が多いと思う。
 『記紀』神話の天の日矛伝承、都怒我阿羅斯等は、新羅の王子が女性を追ってやってきたという伝承を伝えている。また、歴史作家、関裕二氏もこの神が九州へ進軍して行ったとし『記紀』神話の仲哀天皇と神功皇后にかぶさってくるという。

丹後からやってきた新羅の神
 『日本書紀』に登場する丹後半島の日下部の首である、浦の嶋子が登場するが、この浦嶋子こそが浦島太郎である。浦島太郎は『日本書紀』に登場する人物だったのだ。また関裕二氏は、この浦島太郎こそが、天の日矛(都怒我阿羅斯等)・武内宿禰・素戔嗚尊という。浦島太郎も武内宿禰も300年生き、伝承する人物像も非常に似通っている。
 この集団が筑豊に入って来た可能性は先ほども記述した、都怒我阿羅斯等伝承や新羅の神が舞い降りたとする『豊前国風土記』にも通じる部分だ。
 大分の姫島に伝わる比売語曽も、『記紀』神話では、新羅から丹後へやって来た比売語曽を追って天の日矛が丹後に来たのも、この九州への派遣(進軍)を意味している。
 一説でも、比売語曽は神功皇后のモデルであった説や神功皇后の母など、住吉神社(大阪)とも深く関わりそうな神である。

 これを証明するのが日田の小迫辻原遺跡である。日田市内でも唯一と言っていい布留式土器が出土する。布留式土器とはわかりやすく言えばヤマト(畿内)の土器である。
 そしてこの遺跡は奈良の纒向遺跡とほぼ同時期に発達していった遺跡で、この時期から鉄が九州からヤマトへと移動が始まり、九州の伊都や吉野ヶ里を含めた遺跡が衰える時期にあたるのだ。そして小迫辻原遺跡が輝き始める。ようするに卑弥呼から台与の時代に反応するのが小迫辻原遺跡であるのだ。
 豊臣と徳川が九州を統治するにあたり、日田に楔を打ち込んだ理由が邪馬台国の時代にも歴史は繰り返されていたという簡単な意味がみえてくるだろう。
 九州の神社に残された、武内宿禰は、武雄神社や高良大社を始め、日田の高良玉垂神社も含め、また『記紀』神話の宇美での伝承となる仲哀天皇、神功皇后との伝承も含めて九州に濃厚なものが残されている。
 武内宿禰=天の日矛=都怒我阿羅斯等という伝承、そして九州王朝最後の人物とされる磐井までにかけて檀君神話と新羅系とが色濃く残される「藤原恒雄」という英彦山伝承にして後世に残したのではないかと私は思う。
新羅に関して 西谷正氏は『古代朝鮮の考古と歴史』で、」豊前の香春神社の祭神が新羅の神であることは『豊前国風土記』などの記録からうかがえる・つまり新羅からの渡来人が・豊前の各地に住みつき」と断言している。

 蘇我氏から藤原氏に権力が移り変わるときに、九州でも磐井が敗北し畿内でも蘇我氏も敗者となり、藤原の時代がやってくる。九州も新羅から百済へと変わる時にこの時代的反応を示しているのかもしれない。
 この英彦山に恒雄伝承と共に仏教が公伝より先にやってきている伝承も見逃せないと私は思う。仏教も新羅仏教と百済仏教に分けられ、時代的権力にも通じる部分である。

 最後に、英彦山は『記紀』神話の天孫降臨の場所(添田町の学芸員も同じ考えだった)で、その流れを日田と筑豊と豊前の本当の古代史(蘇我氏・秦氏)を消し去った人物こそが『日本書紀』を編纂した藤原不比等ではなかったか。恒雄にその藤原という冠をむりやりこじつけて、伝承として残された。それが本当の歴史かもしれない。

 丹後半島から舞い降りた都怒我阿羅斯等=武内宿禰(新羅から渡ってきた神)が英彦山を創建しその新羅の権力が磐井まで続き、恒雄という檀君神話に残された。その伝承が「鷹伝承」・「藤原恒雄」となり言い伝えられた。
 下書きに過ぎないがもっと調べると古代九州王朝の匂いと謎が見えてくるのかもしれない。この私の話は馬鹿げているのだろうか。恒雄という人物。日本の歴史の闇に消されたとんでもない檀君伝承であり、『記紀』神話が何故九州で天照大神・素戔嗚尊・月読尊を誕生させたのかという謎も秘めているのであって、今回は割愛するが新羅と出雲神が一体化している謎も解けてくる。筑豊の古代史活動されているメンバーが神話のルーツは筑豊にありというのも私は理解出る。その謎が日田の恒雄だった・・・・・凄いじゃないか。
 恒雄のルーツは武内宿禰で都怒我阿羅斯等(天の日矛)で素戔嗚尊であった。新羅の4代の王は倭国(タナバ国)から来た倭人(日本人)だったのも見逃せない。
 伊藤塾長・桑野洋輔師匠に、あちらこちらに連れて行ってもらい、その先で多くの発見や人とのつながりの大切さを教えて頂きました。ここで感謝を再度申しあげます。

※中野幡能(なかのはたよし)
 宇佐市出身で東京大学文学部宗教史学科卒その後、別府大学講師、久留米大学院講師
 文学博士。「名前は歴史より長く生きる、これらの名前も韓国の檀君神話と英彦山の恒雄(かんゆう)信仰は遠い昔に私たちの知らない日本と韓国の関係があった」